隣の歯医者さん
僕の家の隣に歯医者さんができた。
母さんは大喜びだけど、僕はその理由がよく分からない。
なぜなら母さんの歯並びは決して良くないし、虫歯になっていない歯の方が少ないくらいお口のケアには無頓着だからだ。
「ねえ、さっそく行ってみない?歯医者」
母さんが僕に言った。
「え、なんで?僕、虫歯じゃないよ。この間学校で歯科検診やったばかりだし」
「いいじゃない、せっかく隣にできたんだから」
母さんの言い分は無茶苦茶だ。
歯医者はケーキ屋さんやレストランの様に、新しくできたから行くところじゃない。
だけど、母さんはなんだかワクワクそわそわしている。
「だってねぇ、お隣にお店が出来たの母さん初めてなんだもん」
「歯医者はお店じゃないよ」
「わかってるけどー」
母さんは出来たばかりの歯医者に行きたくて仕方ないみたいだ。
「僕は絶対に行かないからね。母さんが行ったらいいじゃないか」
僕がそう言うと、母さんの顔色が変わった。
「私は歯医者は嫌いなの。だから、のぶ君に行って欲しいの」
「そんなの無茶苦茶だよ、僕は母さんと違って虫歯は一本もないんだからね」
「ひどい、ひどいわ、のぶ君。のぶ君が虫歯がないのは、歯が生えた時から私が一生懸命磨いてあげたおかげなのに」
「そんなぁ」
僕が赤ちゃんの頃の話を持ち出されても困ってしまう。
「母さんは小さい頃虫歯がひどくて、すごくつらくて、だから、のぶ君にはそんな思いをして欲しくなくて、母さん頑張ったのに」
母さんは何が何でも僕を歯医者に連れて行きたいらしい。
「わかったよ、じゃあ行ってあげるけどさぁ、ほんとに僕虫歯ないからね」
「ほんと!ほんとに!!ありがとうのぶ君!」
母さんの考えていることはよくわからない。
でもまあ、虫歯がない僕が歯医者にいったところで、特に何をされるわけでもないだろう。
だから、一度くらいは行ってあげることにした。
次の日学校から帰って来ると、母さんが僕のことを待ち構えていた。
「のぶ君!今日予約入れたから」
「えっ?」
「歯医者よ、歯医者!」
僕は虫歯が痛いわけじゃないから歯医者のことなどすっかり忘れていた。
だけど、母さんはまるで高級フレンチに行くようなはしゃぎっぷりだ。
「ふうん」
母さんには悪いけど、僕にはどうでもいいことだ。
「四時半からだから、おやつ早く食べちゃいなさい」
テーブルの上に置いてあるおやつはいつもよりもうんと豪華なケーキだ。
どこまで浮かれてるんだと僕はあきれたけれど、そのおかげでこんな素敵なおやつが食べられるのなら、僕にとってもそんなに悪い話ではなくなってきた。
「こんにちはー」
時間になったので、僕と母さんはお隣の歯医者を訪れた。
待合室で、母さんはキョロキョロと落ち着かない。
「素敵ねぇ。ホテルみたい」
それは言い過ぎだろうと僕は思ったけれど、看護婦さんの前では何も言えない。
僕の名前が呼ばれたので母さんと一緒に診察室に入った。
「よろしくお願いします!」
母さんの方がはりきっているから、僕が言うはずの言葉を母さんが横取りした。
「今日はどうされましたか?」
歯医者さんの質問に、「あの、定期検診です」と、またしても母さんが答えた。
「じゃあ、ざっと見ていきますね」
僕は診察台に座ると口を大きく開けた。
すると、それを見ていた母さんもつられて大きな口を開けたんだ。
「うん、とてもキレイですね」
歯医者さんが母さんの方を振り向いた。
「ほお、これは!」
歯医者さんは、大きく開かれた母さんの口の中を覗き込んでいる。
「あうっ!」
母さんは慌てて口を閉じて思い切り手で押さえたけれど、その口の中はしっかりと歯医者さんに見られてしまった。
「お母さん、一度お口の中をしっかり見せてもらえませんか?」
「いえ、私は大丈夫です。全然大丈夫ですから!!」
母さんは口を押えたまま言った。
「ほら、のぶ君、もう帰ろう」
「え、まだ口ゆすいでない」
僕は治療用のエプロンをつけたままなのに、母さんは僕の腕を引っ張った。
「お母さん、その奥歯、放っておくと大変なことになりますよ」
「まさか、私の歯は全て治療済みですよ。嫌だわ冗談ばっかり」
母さんは何が何でも帰るつもりらしい。
「いや、医者として見逃せませんね」
歯医者さんはそういうと、僕のことを診察台からおろし、代わりに母さんのことを無理やり座らせた。
「ちょっと、医者だからってこんなことしてもいいと思ってるんですか!」
母さんはすごい剣幕で抵抗したけれど、歯科助手さんと歯医者さんに二人がかりで取り押さえられ、ついには口をこじ開けられた。
「のぶ君!た、助けてー」
母さんは必死になって叫んだけれど、僕は怖くて怖くて一歩も動けない。
「大人しくしてないと、ほかの歯も削っちゃいますよ」
歯医者さんが脅したせいで、ついに母さんは大人しくなった。
「よろしい」
歯医者さんはそういうと、凄い勢いで母さんの歯を削り始めた。
僕は虫歯になったことがないから、歯が削られているのを見るのも、その音を聞くのも初めてだった。
「いた、いた、いたたー」
母さんは涙をにじませて叫んでいるが、歯医者さんは治療の手を緩めることはない。
「さあ、これをかぶせたら終わりですよ」
歯医者さんは額の汗をぬぐった。
「ひどい、ひどいわ」
母さんはめそめそと泣いている。
さっきまでホテルみたいだ、なんてはしゃいでいたのに、今ではすっかり別人のようだ。
「もう、絶対に来ませんから」
母さんはそんな捨て台詞を歯医者さんに投げかけたもんだから、僕は「母が、すみません」とあやまっておいた。
「まったく、ひどいめにあったわ」
家に帰った母さんは鏡を手にぼやき始めた。
「母さん、僕ね将来なりたいものができたよ」
「なによ藪から棒に」
「僕、歯医者になるよ」
僕がそう言うと、母さんは持っていた手鏡を落っことしたんだ。