閉じない口
ある日、朝起きると私の口は、開いたまま閉じなくなっていた。
「おかあはん、ろおしよう。くちはとひはいひょー」
私はキッチンにいる母に向かって必死で訴えた。
「あんた、何言ってんの。朝からふざけてないで、さっさと朝ごはん食べなさい」
母は私のことをちゃんと見もしないで、ご飯とみそ汁とよそっている。
「らから、くちは、とひはいおー!!」
だから、口が、閉じないの、と私は言いたかったのだが、ぜんぜんうまくいかない。
「ええ?なんだって」
母はやっと私のことを見た。
「どうしたの、そんな大きな口開けて。虫が入るわよ」
それでも母はまだ私の異常事態に気づかない。
「とひはいのー!!」
とうとう私の目からは涙がこぼれ落ちた。
「なに?どうしたの!大丈夫かい、あんた」
母は、私の頭がおかしくなったとでも思ったのだろう。やっと、私のところにやってきて、まともに取り合ってくれた。
「とにかく、口を閉じなさいよ」
母は、私の頭とあごを持つと、思い切り力を込めた。
「いはい、いはいよー」
痛い、痛いよと言いたいのだけれど、それも言えない。
「あら、おかしいわね、どうして閉じないの?ちょっと、おとうさん、おとうさーん」
母は父に助けを求めた。母の力では無理でも、父だったら何とかなるかもしれない。
「なんだ、朝から騒がしい」
今起きたばかりらしい父がやってきた。
「おとうさん、ゆきこの口が開いたままで閉じないのよ」
「何を訳の分からないこと言ってるんだ。閉じないんじゃなくて、あごが外れたんだろう」
今度は父が私の頭とあごをつかみ、さっきよりも、もっと強い力で押さえつけた。
それでも私の口は閉じない。ただ、押さえられた頭とあごが痛いだけだ。
「いははははー、いはーい」
いたたたたー、痛ーい、と言いたいのだが、それもうまく言えない。
私は、ちゃんと話せないイライラと、口が閉じない恐怖のせいで、また泣き出した。
「おかしいな、閉じないぞ。これは歯医者につれていくしかないな」
父は母に向かって言った。
「えー、私これからパートなのに。あなたが連れて行ってよ。今日、仕事休みなんでしょ」
「ええー、俺、歯医者嫌いなんだよ」
「なに子供みたいなこと言ってんの。とにかく私は無理ですからね。あと、ゆきこの会社に電話入れといて」
「はあ?それはお前がすればいいじゃないか」
「いやよ、私、もう出かけますから。じゃあ、あとはお願いね」
そう言うと、母はさっさと出かけてしまった。
「ひどい母さんだな」
父はぶつぶついいながらも、私の会社の電話番号を調べると、連絡をいれてくれた。
その間も、私の口は開きっぱなしで、もうのどがカラカラだ。
「歯医者につれてくから、着替えてこい」
父に言われて、私は部屋に戻り着替えをすませた。
口が閉じないから、水も飲めない。
「のおかはいはー、おははすいはー」
喉渇いた、お腹すいた、と私は言いたかった。
父は「うんうん、わかったから、今医者に連れてってやるから」と言った。
だけど、そんな父の口の周りにはご飯粒がついている。
私が着替えている間に、自分だけお腹を満たしたのだ。
私は無性に腹が立った。
私がこんなに苦しんでいるというのに、母はパートに行ってしまうし、父は、ちゃっかりご飯を食べている。
いらだちと、情けなさで、また泣けてきた。
「お前、このくらいのことで泣くなよ」
私は、父を殴ってやろうかと思った。
だけど、父に連れて行ってもらわなければ、歯医者には行けない。
私は、仕方なく殴りたい気持ちをグッとこらえた。
車に乗って約10分、歯医者に到着した。
歯医者の入り口に自動販売機が置いてある。
「お、新しいコーヒーが出てるな」
父はそう言うと、すぐさま財布から小銭を取り出して自販機に投入した。
そして、その新商品のコーヒーをゴクゴクと美味しそうに飲み始めたのだった。
私の口は相変わらず開いたままで、のどはカラカラ、お腹はペコペコだというのに。
父は、そんな私の目の前で、平気な顔をしてコーヒーを飲んでいるのだ。
もう、私は我慢できなかった。
次の瞬間、私のこぶしは、父の頬を思い切り殴っていた。
缶コーヒーは、勢いよく父の手から転げ落ちた。
父は一瞬驚いたが、すぐさま構えると、鮮やかなパンチを私の頬に食らわした。
そして、私の口は閉じたのだ。